【実話!】滝行ブームを巻き起こした「須磨亮太」の「滝行」よもやまバナシ Vol1

変わる 体重110キロを超える女性が断食道場にやってきた。60キロ太ってしまったので、やせたいと。 しかし、後でわかったのだが、付き合っていた男性がいたが、妊娠した後ふられ、おろすことに。その後、よりを戻して付き合ったらまた妊娠。そして別れ。それが理由で数年閉じこもりだった。 家族がそのことを知ると、施設に入れというので、家にいられなくなり、断食道場へ来たのだった。 同室の人と話をしたら血を吐いてしまったというほど、精神的にも落ちていた。 部屋にこもり、インターネットをするという生活が一か月以上続いた。シャワーも浴びない洗濯もしない状態だった。 ようやく、部屋から出て話もできるようになったので、滝行を勧めた。 車で1時間の洒水の滝に行き滝に打たれた。次からは運転をかってでた、すぐに道を覚えて運転の腕は大したものだった。 体脂肪があるので、冬でも結構平気で入るようになり、2か月もすると、とても明るくなった。まもなく仕事見つけましたと新たな人生を始めた。 荷物をまとめて出発のとき、また悩んだらいつでも戻ってきてね。と私は声をかけた。感慨無量だった。 断食、滝行をやってきてよかった。報われた喜び。困った人を助けることは自分の喜びでもあるとつくづく思った。 そんな活動をを知って車を買う代金をプレゼントする人もでてきて、この仕事を本気でやろうと思った。 滝行は安全なのか 洒水の滝御殿場線山北駅から2キロほどの山の中にある。落差69メートルで2段になっている。南に面しているので日があたると虹がでてなんとも美しい滝。名瀑100選にも選ばれている。1000年前に文覚聖人が100日間の厳しい滝修行をしたことで有名。 文覚聖人は19歳のときに人妻を好きになってしまった。その人妻は不条理に観念して、寝ている間に主人を殺してと言った。文覚聖人が主人の寝床に殺しに行くと人妻が主人の身代わりになって横たわっていたのだ。人妻は死んだ。その後文覚聖人は修行をして僧になり、人のためにたくさんの業績を残した。 洒水の滝は断層によってできた滝だが、地層が弱くひんぱんに崩れる。大雨の時や雪解けのころは特に滝行の最中にも石が落ちてくることがよくあった。 台風が近づいていたとき同僚の僧が「今日は危ないからやめたほうがいい」というと、滝行に通っていた若い女性が「滝行で死ぬのは本望です」と言い切った。同僚の僧はそれを聞いて俄然やる気になったほど。 滝行をする人が次々に訪れていた洒水の滝に暗雲が漂う。5年ほど洒水の滝での滝行が続いていたが、次第に厳しくなってきた。 30年ぶりの大型台風で観瀑台が大きくえぐられ、フェンスが落ち、滝つぼへ続く橋が落石で壊れた。崖の修復のために立ち入り禁止になった。それでも流れに沿って壊れた橋の下をくぐって滝行を続けていたが、再び災害に見舞われた。 台風が通過した朝、まず横須賀から来ていた鍼灸師が滝から戻って、落石に遭遇して危なかったと言った。次に数人で向かった先輩の僧侶も今日は危ないから時間を短めにしたほうがよいと。 私たちが戻って来て、4時間後、大規模な鉄砲水が発生。いたるところが決壊した。小屋も流された。危なかった。 洒水の滝の現在 観光客が途絶えなかった洒水の滝。1000年以上も滝行が続けられてきた滝が閉鎖されたままとなっている。ひっきりなしに滝行をする人が訪れていたのに。山北町観光協会からも私たちが指定団体として滝行を振興させようと話していたのにである。 滝行には何物にも代えがたい底知れぬ力がある。こんなに素晴らしいものができなくなってしまうことは大変な損失だ。 滝行自体がしぼんでいった。 洒水の滝の入り口には旅館、洒水園があり、いつでも入れる風呂があった。冷え切った体で滝から戻り、風呂に入れるのが大変な魅力だった。洒水園の主人僧侶の大野博道師は1000日連続滝行を行った。不動明王が出てきて手が不動明王の手になり、パワーが出るといって気功治療していた。洒水の滝で滝行ができなくなるとパワーが衰え、重病にかかり今は車いす生活になり施設に入っている。洒水園は休眠した。 名水コーヒーの店や軽食の店は撤退、旅館文覚荘も人気が消えた。 私も気功を中国で習ったので気功ヒーリングはしています。 夕日の滝 そんなとき夕日の滝がある南足柄市商工課から声がかかった。 夕日の滝で滝行を継続する団体は私達以外にはなく一からのスタートだった。標高が500メートルあるため、冬は凍る。水温は1度まで下がる。日に日に水温が下がる中で戸惑いはあったが、それを克服する中で心身に大変な変化が起こってきた。 週三回滝行を行うようになった。 不思議と風邪をひかなくなり、肩こり、腰痛もでなくなり、よく眠れ、美味しく食べれる。 いつも楽しく意欲的で悩みも特になし。 精神的に強く、怖いものはなにもないという気分。 同級生や年下の友人たちが死んだりしていく中で、健康診断でも問題はない。 夕日の滝は極めて安全な滝だ。垂直に近い溶岩の壁で、上は池のようになっていて石などが落ちることもなく、水量もちょうどよい。 滝行ランキングでも一番。 滝行する滝の条件は 交通の便がよい。駐車場から近い。着替えができるスペースがある。 水量が安定。冬でも完全凍結しない。大雨でも入るスペースが確保できる。 落石などが少ない。足元がしっかりしている。 滝つぼに立てる。深い場合は近づくこと自体無理。 一見入れそうな滝はいくらでもあるが、水深が2メートル以上あると難しい。 そういう点からみて夕日の滝は滝行に最適だといえる。 洒水の滝と夕日の滝があったことに感謝したい。奇跡の滝である。この滝がなかったら私たちは滝行に出会ってなかった。 滝行の歴史 滝行がいつ頃から行われていたかという話になると、日本の宗教の歴史になってくる。 縄文時代の狩猟生活のなかで、自然に対する畏敬の念、先祖、魂、神への崇拝が起こってきたと考えられる。弥生時代になると大陸から稲作が伝えられ、王への忠誠、王による神道の考え方が定着してくる。飛鳥、奈良時代には大陸から仏教が入ってくる。この仏教はインド起源で中国で道教儒教と融合しながら伝わった。 私はインドのブッタガヤなどの仏教聖地から中国の三大仏教聖地、韓国の寺などを訪ねつぶさに見てきた。 日本に伝わった仏教が神道と出合い様々な宗教が生まれる。その中でも山伏集団の修験道(しゅげんどう)が全国に形成された。修験道の開祖は役行者である。 私は役行者の存在を知ったとき何か縁のようなものを感じた。役行者(えんのぎょうじゃ)は子供の頃から滝行を行い、神通力を得て、全国200か所で民衆のために尽力した。ところが、側近の裏切りにより朝敵とされ牢に入れられた。その後も修験道は何度も弾圧にあった。 修験道密教に属する真言宗天台宗、また神道と一緒になり今も続いている。 では現在どういう団体が滝行を行っているかと言うと、修験道の行者のほか、一部の真言宗天台宗と一部の神道団体だ。 奈良時代から続いていた修験道の滝行だが、明治時代に神道の中から滝行を禊(みそぎ)にとりいれようという動きが出てきた。川面 凡児(かわずらぼんじ)が禊行法を体系化した。 では細かく見てみよう。 修験道の作法 1000日回峰行が修験道の修行のひとつ。東北出羽三山羽黒山には羽黒修験の伝統が残っていて、12月31日には松例祭が行われる。全国から修験者が来るが人数は決して多くはない。「塩だけ持って山に入り木食をしながら峰を回る」生きるという点では一握りの塩があればよい。「普段は公務員だがそれは世をしのぶ仮の姿」生きるということはすなわち修行である。 周辺には修験道の人が多い。公務員をやっていたが、岩木山の神が出てきてあれしろ、これしろと仕事どころではなくなった。公務員をやめていまは民宿やりながら修験道につきあってる。など話してくれる。 祭りの内容は修験道そのもので、開山の崇峻天皇の皇子で蘇我馬子の追撃から逃れた蜂子皇子の故事。ツツガムシ退治。修験者の験比べなど多彩。 修験道では滝行の前には九字を切る、真言を唱える。般若心経を唱える。 九字は臨兵闘者 皆陣列在前と唱えながら縦横に右手剣指で切ってゆく。 または手指で印を結ぶ。 これは中国道教の経典からきてる。 真言不動明王真言 のうまくさんまんだばあさらなんせんだまかろしゃなそやたやうんたらたかんまんなど これはインドのマントラからきている。 修験道役行者がそうであったように修行を積んで結果を得る。神通力ともいう。私の場合には相手の体をチェックしたりゆるめたり、肩こり、腰痛などを緩和したりするヒーリングを行う。 その人の持って生まれたものがあり、だれでも同じように力を得るわけではない。中には熱心に3年修行したが何も起きなかったという人もいる。数回の滝行で、第三の感覚に目覚めたという人もいる。 私が修行をした、天台宗の寺院では役行者の正統の流れを受け継ぐ住職が祈祷を行っていた。先輩には洒水園の大野博道師の他、伊吹修験者がいる。洒水の滝でも修行し、病気を癒す力を得たくて50歳を機に熊野で60日の厳しい修行をした。しかし修行途中に命を落とし神として祭られている。 修行と禊 滝行は大きく修行と禊という分け方ができる。私たちは特定の宗教として行っているわけではないが、伝統に従い修行と禊の両面から行っている。 厳しい命をかけた修験道の修行に対して、禊は大きく異なる。 禊は古事記日本書紀にあるイザナギノミコトが死んだ妻を追い黄泉の国に行き、腐りウジがわいている姿を見て、清めのために禊をしたことから始まる。当初は滝行とは違うが、水で清める、川や海で清めるから滝で清めると滝での禊となったと考えられる。 奈良時代以降禊は影を潜めていたが、川面 凡児(かわずらぼんじ)が明治42年神奈川県の片瀬海岸で復興第一回の禊を行う。私は今片瀬海岸を対岸に見る江の島に断食道場を持っているので感慨深いものがある。 その作法は祝詞をあげ、振魂、鳥船、雄健、雄詰、伊吹といったものだった。 振魂は、瞑目して「大祓戸大神」と連唱しながら、玉を包むように右手を上にして掌を軽く組み合せ、連続して上下に振り動かす動作である。 鳥船とは、神代にあった船のことで、掛け声とともに船を漕ぐ運動をし、心身を鍛練する。 雄健は、足を開き、両手を腰に当て、「生魂・足魂・玉留魂」と、唱える。言霊と呼吸法により心身と霊魂を浄化統一する所作だ。 雄詰。左足を斜前に踏み出し、左手は腰に当て、右手の親指、薬指、小指を曲げ、人差し指と中指を伸ばして天之沼矛に見立て、「イーエッ」の気合とともに斜左方に切り下ろす。 伊吹は、息を吐きながら両手を拡げて差上げ、徐々に手を下げながら、大気を丹田に収めるイメージで息をゆっくり吸い込む。(『川面凡児全集 第六巻』) 中国気功とほぼ同じ。 声言霊 言葉を重んじる。言葉によって人を癒すことができる。声自体もだが、言霊を解するようになればなおのこと。 川面凡児が復活した禊が広まって現在も続けられている。 気功も宗教の鍛錬の方法として発達したものが健康法、医療機構として定着した。 滝行も宗教行事が健康法、医療としてひろまるという面もある。 近代には精神病は祈祷で治療していた。精神分裂病、憑依などに滝行で治療を行ってきたという記録がある。 藤沢の精神内科の先生から薬では効かない人をお願いしますと何回か頼まれた。一回では効果は判別できないが、何回かいらした方もあった。 私は中国上海の上海気功研究所で数年気功の勉強をした。河面凡児の作法は中国伝統気功の作法と非常によく似ている。中国では気功は3千年前から行われているので影響はあっただろうと思われる。 禊滝行は河面凡児が神がかりして、古代の行法を導きだしたといわれている。個人の創始したものが広まったのだ。 天台宗伝教大師真言宗弘法大師修験道役行者が創始した。みな個人の功績だ。 天台宗真言宗もインドの仏教がチベット 
チャット終了
変わる 体重110キロを超える女性が断食道場にやってきた。60キロ太ってしまったので、やせたいと。 しかし、後でわかったのだが、付き合っていた男性がいたが、妊娠した後ふられ、おろすことに。
 
 
その後、よりを戻して付き合ったらまた妊娠。そして別れ。それが理由で数年閉じこもりだった。 家族がそのことを知ると、施設に入れというので、家にいられなくなり、断食道場へ来たのだった。 同室の人と話をしたら血を吐いてしまったというほど、精神的にも落ちていた。 部屋にこもり、インターネットをするという生活が一か月以上続いた。シャワーも浴びない洗濯もしない状態だった。 ようやく、部屋から出て話もできるようになったので、滝行を勧めた。 車で1時間の洒水の滝に行き滝に打たれた。次からは運転をかってでた、すぐに道を覚えて運転の腕は大したものだった。 体脂肪があるので、冬でも結構平気で入るようになり、2か月もすると、とても明るくなった。まもなく仕事見つけましたと新たな人生を始めた。 荷物をまとめて出発のとき、また悩んだらいつでも戻ってきてね。と私は声をかけた。感慨無量だった。 断食、滝行をやってきてよかった。報われた喜び。困った人を助けることは自分の喜びでもあるとつくづく思った。 そんな活動をを知って車を買う代金をプレゼントする人もでてきて、この仕事を本気でやろうと思った。
 
 
俄然やる気になったほど。 滝行をする人が次々に訪れていた洒水の滝に暗雲が漂う。5年ほど洒水の滝での滝行が続いていたが、次第に厳しくなってきた。 30年ぶりの大型台風で観瀑台が大きくえぐられ、フェンスが落ち、滝つぼへ続く橋が落石で壊れた。崖の修復のために立ち入り禁止になった。それでも流れに沿って壊れた橋の下をくぐって滝行を続けていたが、再び災害に見舞われた。 台風が通過した朝、まず横須賀から来ていた鍼灸師が滝から戻って、落石に遭遇して危なかったと言った。次に数人で向かった先輩の僧侶も今日は危ないから時間を短めにしたほうがよいと。 私たちが戻って来て、4時間後、大規模な鉄砲水が発生。いたるところが決壊した。小屋も流された。危なかった。 洒水の滝の現在 観光客が途絶えなかった洒水の滝。1000年以上も滝行が続けられてきた滝が閉鎖されたままとなっている。ひっきりなしに滝行をする人が訪れていたのに。山北町観光協会からも私たちが指定団体として滝行を振興させようと話していたのにである。 滝行には何物にも代えがたい底知れぬ力がある。こんなに素晴らしいものができなくなってしまうことは大変な損失だ。 滝行自体がしぼんでいった。 洒水の滝の入り口には旅館、洒水園があり、いつでも入れる風呂があった。冷え切った体で滝から戻り、風呂に入れるのが大変な魅力だった。洒水園の主人僧侶の大野博道師は1000日連続滝行を行った。不動明王が出てきて手が不動明王の手になり、パワーが出るといって気功治療していた。洒水の滝で滝行ができなくなるとパワーが衰え、重病にかかり今は車いす生活になり施設に入っている。
 
 
滝行は安全なのか 洒水の滝御殿場線山北駅から2キロほどの山の中にある。落差69メートルで2段になっている。南に面しているので日があたると虹がでてなんとも美しい滝。名瀑100選にも選ばれている。1000年前に文覚聖人が100日間の厳しい滝修行をしたことで有名。 文覚聖人は19歳のときに人妻を好きになってしまった。その人妻は不条理に観念して、寝ている間に主人を殺してと言った。文覚聖人が主人の寝床に殺しに行くと人妻が主人の身代わりになって横たわっていたのだ。人妻は死んだ。その後文覚聖人は修行をして僧になり、人のためにたくさんの業績を残した。 洒水の滝は断層によってできた滝だが、地層が弱くひんぱんに崩れる。大雨の時や雪解けのころは特に滝行の最中にも石が落ちてくることがよくあった。 台風が近づいていたとき同僚の僧が「今日は危ないからやめたほうがいい」というと、滝行に通っていた若い女性が「滝行で死ぬのは本望です」と言い切った。同僚の僧はそれを聞いて洒水園は休眠した。 名水コーヒーの店や軽食の店は撤退、旅館文覚荘も人気が消えた。 私も気功を中国で習ったので気功ヒーリングはしています。 夕日の滝 そんなとき夕日の滝がある南足柄市商工課から声がかかった。 夕日の滝で滝行を継続する団体は私達以外にはなく一からのスタートだった。標高が500メートルあるため、冬は凍る。水温は1度まで下がる。日に日に水温が下がる中で戸惑いはあったが、それを克服する中で心身に大変な変化が起こってきた。 週三回滝行を行うようになった。 不思議と風邪をひかなくなり、肩こり、腰痛もでなくなり、よく眠れ、美味しく食べれる。 いつも楽しく意欲的で悩みも特になし。 精神的に強く、怖いものはなにもないという気分。 同級生や年下の友人たちが死んだりしていく中で、健康診断でも問題はない。 夕日の滝は極めて安全な滝だ。垂直に近い溶岩の壁で、上は池のようになっていて石などが落ちることもなく、水量もちょうどよい。 滝行ランキングでも一番。 滝行する滝の条件は 交通の便がよい。駐車場から近い。着替えができるスペースがある。 水量が安定。冬でも完全凍結しない。大雨でも入るスペースが確保できる。 落石などが少ない。足元がしっかりしている。 滝つぼに立てる。深い場合は近づくこと自体無理。 一見入れそうな滝はいくらでもあるが、水深が2メートル以上あると難しい。 そういう点からみて夕日の滝は滝行に最適だといえる。 洒水の滝と夕日の滝があったことに感謝したい。奇跡の滝である。この滝がなかったら私たちは滝行に出会ってなかった。 滝行の歴史 滝行がいつ頃から行われていたかという話になると、日本の宗教の歴史になってくる。 縄文時代の狩猟生活のなかで、自然に対する畏敬の念、先祖、魂、神への崇拝が起こってきたと考えられる。弥生時代になると大陸から稲作が伝えられ、王への忠誠、王による神道の考え方が定着してくる。飛鳥、奈良時代には大陸から仏教が入ってくる。この仏教はインド起源で中国で道教儒教と融合しながら伝わった。 私はインドのブッタガヤなどの仏教聖地から中国の三大仏教聖地、韓国の寺などを訪ねつぶさに見てきた。 日本に伝わった仏教が神道と出合い様々な宗教が生まれる。その中でも山伏集団の修験道(しゅげんどう)が全国に形成された。修験道の開祖は役行者である。 私は役行者の存在を知ったとき何か縁のようなものを感じた。役行者(えんのぎょうじゃ)は子供の頃から滝行を行い、神通力を得て、全国200か所で民衆のために尽力した。ところが、側近の裏切りにより朝敵とされ牢に入れられた。その後も修験道は何度も弾圧にあった。 修験道密教に属する真言宗天台宗、また神道と一緒になり今も続いている。 では現在どういう団体が滝行を行っているかと言うと、修験道の行者のほか、一部の真言宗天台宗と一部の神道団体だ。 奈良時代から続いていた修験道の滝行だが、明治時代に神道の中から滝行を禊(みそぎ)にとりいれようという動きが出てきた。川面 凡児(かわずらぼんじ)が禊行法を体系化した。 では細かく見てみよう。 修験道の作法 1000日回峰行が修験道の修行のひとつ。東北出羽三山羽黒山には羽黒修験の伝統が残っていて、12月31日には松例祭が行われる。全国から修験者が来るが人数は決して多くはない。「塩だけ持って山に入り木食をしながら峰を回る」生きるという点では一握りの塩があればよい。「普段は公務員だがそれは世をしのぶ仮の姿」生きるということはすなわち修行である。 周辺には修験道の人が多い。公務員をやっていたが、岩木山の神が出てきてあれしろ、これしろと仕事どころではなくなった。公務員をやめていまは民宿やりながら修験道につきあってる。など話してくれる。 祭りの内容は修験道そのもので、開山の崇峻天皇の皇子で蘇我馬子の追撃から逃れた蜂子皇子の故事。ツツガムシ退治。修験者の験比べなど多彩。 修験道では滝行の前には九字を切る、真言を唱える。般若心経を唱える。 九字は臨兵闘者 皆陣列在前と唱えながら縦横に右手剣指で切ってゆく。 または手指で印を結ぶ。 これは中国道教の経典からきてる。 真言不動明王真言 のうまくさんまんだばあさらなんせんだまかろしゃなそやたやうんたらたかんまんなど これはインドのマントラからきている。 修験道役行者がそうであったように修行を積んで結果を得る。神通力ともいう。私の場合には相手の体をチェックしたりゆるめたり、肩こり、腰痛などを緩和したりするヒーリングを行う。 その人の持って生まれたものがあり、だれでも同じように力を得るわけではない。中には熱心に3年修行したが何も起きなかったという人もいる。数回の滝行で、第三の感覚に目覚めたという人もいる。 私が修行をした、天台宗の寺院では役行者の正統の流れを受け継ぐ住職が祈祷を行っていた。先輩には洒水園の大野博道師の他、伊吹修験者がいる。洒水の滝でも修行し、病気を癒す力を得たくて50歳を機に熊野で60日の厳しい修行をした。しかし修行途中に命を落とし神として祭られている。 修行と禊 滝行は大きく修行と禊という分け方ができる。私たちは特定の宗教として行っているわけではないが、伝統に従い修行と禊の両面から行っている。 厳しい命をかけた修験道の修行に対して、禊は大きく異なる。 禊は古事記日本書紀にあるイザナギノミコトが死んだ妻を追い黄泉の国に行き、腐りウジがわいている姿を見て、清めのために禊をしたことから始まる。当初は滝行とは違うが、水で清める、川や海で清めるから滝で清めると滝での禊となったと考えられる。 奈良時代以降禊は影を潜めていたが、川面 凡児(かわずらぼんじ)が明治42年神奈川県の片瀬海岸で復興第一回の禊を行う。私は今片瀬海岸を対岸に見る江の島に断食道場を持っているので感慨深いものがある。 その作法は祝詞をあげ、振魂、鳥船、雄健、雄詰、伊吹といったものだった。 振魂は、瞑目して「大祓戸大神」と連唱しながら、玉を包むように右手を上にして掌を軽く組み合せ、連続して上下に振り動かす動作である。 鳥船とは、神代にあった船のことで、掛け声とともに船を漕ぐ運動をし、心身を鍛練する。 雄健は、足を開き、両手を腰に当て、「生魂・足魂・玉留魂」と、唱える。言霊と呼吸法により心身と霊魂を浄化統一する所作だ。 雄詰。左足を斜前に踏み出し、左手は腰に当て、右手の親指、薬指、小指を曲げ、人差し指と中指を伸ばして天之沼矛に見立て、「イーエッ」の気合とともに斜左方に切り下ろす。 伊吹は、息を吐きながら両手を拡げて差上げ、徐々に手を下げながら、大気を丹田に収めるイメージで息をゆっくり吸い込む。(『川面凡児全集 第六巻』) 中国気功とほぼ同じ。 声言霊 言葉を重んじる。言葉によって人を癒すことができる。声自体もだが、言霊を解するようになればなおのこと。 川面凡児が復活した禊が広まって現在も続けられている。 気功も宗教の鍛錬の方法として発達したものが健康法、医療機構として定着した。 滝行も宗教行事が健康法、医療としてひろまるという面もある。 近代には精神病は祈祷で治療していた。精神分裂病、憑依などに滝行で治療を行ってきたという記録がある。 藤沢の精神内科の先生から薬では効かない人をお願いしますと何回か頼まれた。一回では効果は判別できないが、何回かいらした方もあった。 私は中国上海の上海気功研究所で数年気功の勉強をした。河面凡児の作法は中国伝統気功の作法と非常によく似ている。中国では気功は3千年前から行われているので影響はあっただろうと思われる。 禊滝行は河面凡児が神がかりして、古代の行法を導きだしたといわれている。個人の創始したものが広まったのだ。 天台宗伝教大師真言宗弘法大師修験道役行者が創始した。みな個人の功績だ。 天台宗真言宗もインドの仏教がチベットジを入力…